今の社会の仕組みを理解したい
かれこれ2年が経ちました。コロナと言う名の「社会現象」が流行り始めてから。本ブログでは何度も言っているので改めて言う必要はないかも知れませんが、僕はコロナは全然大した感染症ではないと考えています。むしろ大した社会現象だと考えています。(この前提が違うと議論が噛み合いませんので先に言っておきます。)コロナに罹れば確かに病気にはなるのかも知れませんが、バタバタと若者が死ぬわけではない。恐れるに足りない病気です。そして病気よりもうんと大きいのが、群衆心理が作り出した社会的な混乱でしょう。
流行当初、マスク警察、自粛警察が現れ、ワクチンが出来上がると、「打て」というものすごい圧力が掛かりました。そして最近ではオミクロン株という現れ、どの県で初の感染者というコロナ初期に戻ったような報道が繰り返されています。
どう考えても今の社会はおかしい。
そう思いませんか?2年間コロナをやってきて何を学習してきたんでしょう。しかし残念ながらこれが我々群衆の作り出した社会なんですよね。我々が自ら選択した社会なんですよ。
僕は「何故こんな社会になってしまったのか」、「どうしたら元に戻すことができるのか」をずっと考えてきました。変えられないにせよ、僕は今の社会の仕組みを正しく理解したいと思っています。
以下の記事は以前読んだ「無理の構造」の解説記事ですが、コロナの混乱が何故終わらないのかを端的に表している本です。是非とも読んでみて下さい。
これに引き続き、「なぜ民衆(群衆)がなぜコロナに従順になってしまうのか」というのを理解したくて読んでみたのが今回話題にするこちらの本です。
元々はフランスの心理学者であるル・ボンの書いた「群衆心理」という本。それをNHKが番組「100分de名著」の中で取り上げ、その数回に渡る放送を冊子にまとめた冊子がこれです。今回はこの「群衆心理」に関して解説したいと思います。
コロナを煽りまくって、群衆心理を国家の思い通りに操ってきた悪の首謀者がNHKだと僕は思っているんですが、そのNHKが今さら「群衆心理」の解説本ですよ。「理性や良識が易々と消え去るのはなぜか?」ですって。「どの口が言う!」なんて言いたくもなりますよね。まぁまぁ、そんな怒りにも似た気持ちは抑えておいて、重要な部分をかい摘んで読んでいきたいと思います。ちょっと長めですが読む価値ありだと思います。
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誰もが群衆になり得る
まずは本のバックグラウンドから見ていきましょう。以下、引用の中に(著者解説)と(原文)という2種類のヘッダーが出てきますが、それらは冊子の中にある著者の解説(武田砂鉄氏)か原文(ル・ボン)の日本語訳なのかを区別するものです。著者解説には著者個人の独自の思想が入っているかも知れませんので、あえて区別することにしました。(著者解説)
本書が書かれた当時のフランスは、市民の蜂起と産業革命によって、社会が大きく変化していました。一般市民という「群衆」が急速に存在感を増しており、王侯貴族ではなく、群衆が歴史を動かすようになったとル・ボンは指摘します。そんな時代に、群衆とは何か、それはいかに形成され、どのような特質・心理・行動様式をもっているのかを解明したのが『群衆心理』です。
「群衆心理」は随分と古い本なんですよね。しかし現代に完全に通じるものがある。つまり群衆の行動原理は昔から何も変わっていないということです。様々な学問が発展し、正しい情報が容易に得られるようになったとしても、人々は何も進化を遂げていない。とても愚かな存在だということです。
(著者解説)
ル・ボンは、群衆は未熟な心理しかもたず、非合理な行動をとる存在であると述べています。重要なのは、国籍、性別、人種、生活様式、職業、性格、知力に関係なく、誰でも群衆になり変わってしまう危険性があると警告している点でしょう。個人個人は善良な性格の持ち主であっても、群衆の一員になると、粗暴で偏狭になってしまう。
コロナを怖がる人々(コロナ脳)は、低学歴で低収入の層が多いという主旨の記事を読んだことがありますが、ル・ボンに言わせれば、群衆となるためにはバックグラウンドはあまり関係がないようです。そして善良な性格を持っていても関係ないと言っています。冒頭のここまで読んだだけでも、
その通りだ!
と頷いてしまいます。元々「群衆心理」はコロナなど関係のない時代に書かれたものです。むしろ独裁政治による民衆の洗脳や、王政に対する民衆の蜂起をテーマに書かれたものだと思いますが、コロナ騒動にも全く共通してくるのが面白いと感じるところです。
(原文)
心理学の観点からすれば、群衆という語は、全く別の意味をおびるのである。ある一定の状況において、かつこのような状況においてのみ、人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える。すなわち、意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられるのである。
(著者解説)
「群衆」とは何か。ル・ボンがそう呼んでいるのは、特定の心理作用を起こした人々です。どんな心理作用かというと、一つは「意識的個性の消滅」。いま一つが「感情や観念の同一方向への転換」です。
この部分が恐ろしいくらいに現代のコロナ騒動に通じています。
個性が消失して感情や観念が同じ方向へ進む
のが群衆心理の特徴なのです。
(著者解説)
集団が「心理的群衆」になり変わるには、スイッチとなる何らかの「刺戟」が必要です。それさえあれば、六人程度のグループでも心理的群衆になりうるし、日頃の生活基盤を傾かせるような国家規模の大事件が起こると、ネットでつながっているだけのような「離ればなれになっている数千の個人」の心が強烈に揺さぶられて、心理的群衆の性質を具えることもある。
コロナ騒動を社会現象化させたスイッチは「テレビの煽り」だったと思います。それにより、まさしく「離れ離れの個性が群衆化した」と言えます。
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群衆はこうして奴隷になる
続いて、群衆の振る舞いについて見ていきたいと思います。(原文)
群衆中の個人は、もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。
「自動人形」がまさに今の社会に生きる人々のようです。一律マスク、一律行動自粛、一律ワクチン。反対に感染者が減ればどっと街や観光地に繰り出す。何も考えずテレビが言ったことには全て従う。人々はテレビの操り人形の如く振る舞っていますよね。
(原文)
群衆に暗示を与え得る刺戟は、多種多様であり、しかも、群衆は常にそれに従うのであるから、その気分は、極度に動揺しやすいのである。群衆は、一瞬のうちに残忍極まる凶暴さから、全く申し分のない英雄的行為や寛大さに走る。群衆は、容易に死刑執行人となるが、またそれにも劣らず容易に殉難者ともなる
群衆は、感染者を差別し、マスクをしない人達、自粛をしない人、ワクチンを打たない人達など、異分子を排除する狂暴さを示す反面、「大切な人(他人)の命を守るため」にとマスクをしてワクチンを打つ。すなわち自己犠牲のもとに他人を守るという英雄的な性格も持ち合わせているのです。
(原文)
群衆の誇張癖が感情にのみ作用して、少しも知能には作用しないことをつけ加えるには及ばない。単に個人が群衆に加わったということだけで、すでに指摘したように、その知的水準が著しく低下する。
群衆は知能ではなく感情で動いているというのを象徴する一説ですね。個人でいるよりも群衆でいる方が知的水準が低下するというのも興味深いです。「三人寄れば文殊の知恵」ではないようです。
(著者解説)
そうした世の中の「空気」と、為政者からの「要請」という形をした指示が掛け合わさると、個人で物事を考える力はどんどん弱くなっていきます。「みんな」こう思っているようだし、偉い人がこういっているなら、それに従うほうが得策だろうと、自分で考えることも、ましてや抗うこともやめてしまう。抗っている人を厄介な存在として位置付けるようになる。
考えること、抗うことをやめ、ただただ上の声に従うだけなのが群衆というもの。コロナ報道に従順な人々を、国家の奴隷やマスコミの奴隷になぞらえることがありますが、まさにその通りだと思います。
以下から別の章の記述ですが、恐ろしいことが書かれていました。
(原文)
パリで乗合馬車の雇人たちが起こしたストライキでは、それを 牛耳っていた二人の指導者を逮捕しただけで、すぐさまストライキを中止させることができた。群衆の精神を常に支配しているのは、自由への要求ではなくて、屈従への要求である。服従に対する渇望が、群衆を、その支配者と名のる者へ本能的に屈服させるのだ。
人々は自由を求めているのではなく屈従を求めていると。そんなはずはないと恐ろしくなりますが、現コロナ騒動でもそうでしょう。例えば他人へのマスク圧力やワクチン圧力などがいい例だと思います。本来は自由で、自らも進んではしたくないはずなのに、自らを屈従させるだけではなく、他人に強要する行為はまさに屈従を要求しているとしか思えません。
(著者解説)
私たちの日常もディストピアとさほど変わらないのではないでしょうか。命令されることや、順従することに馴れてしまい、誰かからの指示を待ち、みんなと同じ行動をとることに疑いをもたなくなる。一風変わった判断に対して、冷たい視線を向けるディストピア的な現状を認識していないだけではないのか。
著者も「人々は従うことに慣れてしまい、指示がないと動けない状態になってしまっている」と指摘します。政府からの指示がないため、感染者の増減に関わらず企業の「マスク着用のお願い」が消えず、民衆が皆マスク姿になる、という現象がよくわかりますね。
(原文)
強烈な信仰が、大きな暗示力を彼等(指導者)の言葉に与える。常に大衆は、強固な意志を具えた人間の言葉に傾聴するものである。群衆中の個人は、全く意志を失って、それを具えている者のほうへ本能的に向うのである。
重要なのは強烈な信仰。これですね。何かを信じ込ませることが大事なんですよ。群衆は権力や専門家の言葉に耳を澄まし、それを信じていくのです。
マスクもワクチンも今や強烈な信仰だと思います。どちらも感染を防ぐものではないし、オミクロンの登場でその必要性も徐々に薄れてきている。9割が無症状だというではないですか。
しかし民衆は未だ必死にマスクとワクチンにしがみついていますよね。群衆の外から見れば、自らの意志を失い国家の奴隷になっているだけ。それに気が付かないことが信仰だと言っているのです。
全てを知っているNHK
さて。ここで考えたいのが、ここまでの内容はあのNHKが放送している話だということ。あれだけ偏向報道を繰り返し、民衆を煽っておきながら、こんな本を出していることに疑問を抱かざるを得ません。
もちろんこれは「100分de名著」を編集した著者の考えであり、NHKそのものの考え方ではありません。しかし放映しているのはNHKですし出版もNHK。NHKの意図が入らないわけがないのです。本著では、ところどころコロナと群衆心理を掛け合わせて解説する部分があります。コロナ禍は単なる感染症ではなく、群衆心理が成す社会現象であるとNHKも認めているってことなんですよね。
よく戦時中の大本営の発表をNHKに例えることがありますが、まさにその通り。NHKは国家戦略の代弁者としてこの日本に存在していることがよくわかります。
NHKは腹黒いですよ。
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ウソであっても構わない
引き続き「群衆心理」の特徴を見ていきたいと思います。短い文ですが、「群衆心理」を引き起こす思想がどのようなものかを端的に表す部分を原文から引用してみましょう。(原文)
群衆に受けいれられるには、自分で考えに考えて、なんとか理解するようなものではなく、 咀嚼しなくても吸収できるくらい単純な思想でなくてはならない。
(著者解説)
群衆が心動かされるのは「事件の不思議な、伝説的な」ものなど、「最も真実らしくない事柄」だといいます。真実であるかどうかより、群衆にとって重要なのはインパクトの強さだということです。
群衆は真実であるかどうかに関わらず、
インパクトの強い単純なストーリーに群がる。
これは重要な性質だと思います。コロナで例えれば、「このままでは何十万人が死ぬ」とか「無症状のマスク非着用者がコロナを広める」とか「医療崩壊」とかそんな話でしょうか。当初、人々はそんなインパクトのあるストーリーに魅了されました。
しかし事実は違っていますよね。死者は年間で1万人、がんでは年間40万人が死ぬ。肺炎は10万人、自殺者は2万人。マスクをしていても第何波などは全く関係がない。医療崩壊の傍らで町医者は閑古鳥で次々廃業。
なんか変じゃないですか?しかし人々は単純明快なストーリーの虜になってしまったのです。
未だに「コロナは恐怖のウィルス」という設定を信じている人がいるのが驚きです。頭の良い人ならば自身で考えられると思っていたのですが、心を動かされる単純な話にはいとも簡単に騙されるということなのでしょう。
(原文)
民衆の想像力を動かすのは、事実そのものではなくて、その事実の現われ方なのである。それらの事実が──こういっていいならば──いわば 凝縮して、人心を満たし、それにつきまとうほどの切実な心象を生じねばならない。群衆の想像力を刺戟する術を心得ることは、群衆を支配する術を心得ることである。
上記に対して著者はこう解説しています。
(著者解説)
ワイドショーが愛用する「悲痛!」「歓喜!」といったテロップも「心象を呼び出す押しボタン」といえるでしょう。ニュースの内容を表すわけでもなく、このニュースを観て「こういう感情をもちましょう」と定めてくる。何をどう感じるかは人それぞれのはずなのに、感情的なフレーズを一つ用意することで、別の選択肢を剝奪している。こうした、感情の操作には警戒が必要です。
これいわゆるプロパガンダ(宣伝行為)の典型ですよね。「こういう事実にはこう思いなさい」という誘導は第二次大戦中、いや人類が情報に触れられる時点から我々を支配してきました。NHKもこうした手法を当然知っているのです。
よくもあんな恣意的なニュースを放送できるものだなと呆れてしまいますが、テレビは世論を動かすことができると認識してのことです。NHKは公平に事実だけを伝えていると思っている方は、そろそろ思考をアップデートした方がいいと思います。
(原文)
これまで群衆が、真実を渇望したことはなかった。群衆は、自分らの気にいらぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。群衆に幻想を与える術を心得ている者は、容易に群衆の支配者となり、群衆の幻想を打破しようと試みる者は、常に群衆のいけにえとなる。
この部分、日本での「マスク信仰」を見事に解説しています。マスク着用率とコロナ感染者数は全く相関がない。そんな事実は知る必要がなく、誤謬でも魅力的であるならばそれでいい。「皆で頑張っているんだ」という根拠のない一体感が大切なんだなと思わされます。さらに「群衆の幻想を打破しようとするものはいけにえになる」なんて素晴らしい。反ワクチンを唱えようものなら、コンテンツを配信できなくなるわけですよ(Youtube)。これも群衆のなせる業ですね。
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断言と反復の末に感染していく
情報の真偽に関わらず人々は簡単に騙せるということが分かったわけですけど、それをどうやって広めてくかが次のテーマです。(原文)
群衆の精神に、思想や信念──例えば、近代の社会理論のような──を沁みこませる場合、指導者たちの用いる方法は、種々様々である。指導者たちは、主として、次の三つの手段にたよる。すなわち、断言と反覆と感染である。これらの作用は、かなり緩慢ではあるが、その効果には、永続性がある。
(原文)
断言は、たえず、しかもできるだけ同じ言葉でくりかえされなければ、実際の影響力を持てないのである。真実の修辞形式はただ一つ、反覆ということがあるのみ、とナポレオンがいった。断言された事柄は、反覆によって、人々の頭のなかに固定して、遂にはあたかも論証ずみの真理のように、承認されるにいたるのである。
ル・ボンは指導者がある考え方を広めるには断言と反復と感染、この3つが重要だと言っています。小池都知事のやり方はまさにこれですよね。「三密の回避」、「ステイホーム」など、断定的なフレーズを何度も繰り返す。それによって見事に我々は思考を誘導されていきました。
公共交通機関のマスク着用のお願いも同じ。毎日、否応なしに聞かされることによって、効果のあるなしに関わらず真理となっていくのです。最初は疑問を感じていた人も、毎日聞かされるうちに「そうなのか」と思って疑わなくなっていく。感染者数が減ってきたにも関わらずマスク信仰が強くなったのも、この反復の効果がじわりじわり効いてきたからだと思っています。しかも効果は永続的であると。こんな社会がずっと続くかと思うとぞっとします。
(原文)
意見や信念が伝播するのは、感染の作用によるのであって、推理の作用によることはあまりない。現在、労働者たちのいだく考えは、酒場で、断言、反覆、感染の結果、形づくられるのである。どの時代の群衆の信念も、これとは別の方法でつくられたことは、ほとんどなかった。
ル・ボンの時代テレビはなかったため、意見や信念は酒場で広まると書かれています。現代で言えばテレビ、ネットに相当しますね。そのため現代はかつてより思考の「感染」の拡大が急速なんだと思います。ここ2年、コロナの感染が広まったのではなく、コロナへの過度な恐怖感や一方向の考え方が広まったのだと言えます。
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抜け出すには自分で考え抜くしかない
最後に、どうしたらこの群集心理から抜け出せるのか、ヒントが書かれていたのでそれを解説したいと思います。(原文)
合理的な論理の法則は、群衆には何の作用をも及ぼさない。群衆を説得するのに必要なのは、まず、群衆を活気づけている感情の何であるかを理解して、自分もその感情を共にしているふうを装い、ついで、幼稚な連想によって、暗示に富んだある種の想像をかき立てて、その感情に変更を加えようと試みること、必要に応じてはあともどりもし、特に、新たに生れる感情をたえず見ぬくことである。
ル・ボンは、群衆対しに論理は役に立たず、感情を理解し、共感しつつもその感情に変更を試みることだと言っています。コロナ脳から抜け出せない人に対して理詰めは逆効果。まずは共感から入り、徐々にその考え方を修正していく。神経系の病気の治療と同じなんだなと思います。もっと平たく言えば、単なる傾聴スキルなんですよね。なかなかそれができないんですけど。
(著者解説)
そういう指導者の姿を繰り返しみていると、だんだんそれも悪くないように思えてくる。「本能的に」引き寄せられていってしまう。これに抗っていくには、自分で考えることを愚直に貫くしかありません。群れずに自分で考えればいいのです。
群れずに自分で考えること。とは言うものの、言うは易し行うは難しですよね。群れるのは楽ですが、それじゃ何も変わらないです。考えて行動を起こしてほしいと思います。
(原文)
世界を導くものは、究極においては知性である。しかし実際には、知性は、はなはだ間接的に世界を導くにすぎない。
知性が支配的ならとっくにコロナは終わっています。しかしやはり知性は間接的でしかない。その反面、感情が非常に重要ということなのです。
(原文)
判断力、経験、創意、気概などが、人生における成功の条件であって、教科書のなかで、それらを学ぶのではない。教科書とは、辞書のようなものであって、参考の資料とすれば役に立つが、その冗長な断片的知識を頭につめこむのは、全く無用のことである。
判断力、経験、創意、気概などは教科書の中では学べない、非常に納得がいきます。教科書の範囲を超えるような問題には人々は対処できない、というのがコロナ騒動で判明したことでしょう。日本の教育を見ていればよくわかります。自ら考える力が全くないんですよ。大半の日本人は与えられる情報を鵜呑みにしているだけです。頭がいい人も悪い人も同じです。
(著者解説)
群衆心理の暴走を防ぎうる教育があるとすれば、それは教科書のような「規範」に対し、違和感を投げかけるタイプの学びでしょう。
これも日本に足りない教育なのかも知れません。教科書に書いてあることは正しい。疑うことを知りません。おや?と思ったらその感覚が絶対に正しいはずなので、そこで考えることをやめないで欲しいと思います。
(原文)
もっともらしく聞こえる主張は、必ずといっていいほど何かを省略していて、断言の体裁をとっています。わかりやすく導かれた正解や、正論とされている言説に対しては、「本当にそうなのか」「それで本当にいいのか」と、しつこく問い続ける。「わかりやすさ」の 蔓延 に対して「わかりにくさ」を許容する。
例えばSDGs。小学校でもSDGsの教育が始まっているようですが、半ば洗脳チックで気持ちが悪いです。特に気持ちが悪いのが、地球温暖化の原因は二酸化炭素であると単純化してしまっていること。「本当にそうかな?」と疑問を投げかけるような教育を是非ともして欲しいものです。
世の中そんなに単純な話はないので、「地球温暖化=二酸化炭素が原因」というのは言い過ぎなんですよ。わかりやすい方が教えやすいので教師としてはありがたいんでしょうけど、それじゃあ何の思考力も育ちませんよね。脱炭素、脱炭素と叫ばれていますが、それだけをすれば地球は冷えるんでしょうか?
うちの子たちも、学校教えられたことは全て正しい、疑う余地もないと信じているので、そこを何とかしないとなぁと最近は本気で思っています。コロナの中で育った子供たちが将来どんな社会を作っていくのか不安で仕方がありません。
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まとめ
ここまで長々と解説してきましたが、ル・ボンの「群衆心理」はコロナ騒動のことを書いた本ではないのに、ものすごくコロナ騒動に当てはまる内容で、非常に驚いています。趣旨をまとめると、
どんな人でも群衆になり得るということ。そしてわかりやすい言葉に群衆は惹きつけられ、理屈ではなく感情で動くということ。群衆心理は断言と反復で広まっていき、事の真偽に関わらず真理になっていくということ。
反対に群衆心理から抜け出すには考え抜くことが重要で、「規範」に対して疑うような教育が必要だと説かれています。
というところでしょうかね?
僕が本ブログで書いているコロナ騒動を否定するような記事はGoogleから有害情報指定されています(検索しても出てこない)。情報統制社会などこの民主主義の世の中で起きるはずがない、と思っていましたが、それが現実のものになっています。
それでも書き続ける、こんな長い記事でも書きたくなるのは、それだけ社会を変えたいという思いが強いということだと感じています。
どう考えても今の社会はおかしい。
だから書かずにはいられないんです。
本当はこのような記事をたくさんの人に読んでもらって、コロナが単なる騒動であることに気が付いて欲しいと思っています。そして気が付いた人から、自ら行動して社会を変えていってくれたらなぁと思っています。しかし、きっとこの記事も検索では出て来ないでしょうし、まだまだこの騒動を「本当のパンデミック」だと信じている人が多い現状では、記事を広めてもらうことは難しいのでしょうね。
でも、いつか僕の意見が「やっぱりアイツが正しかったよ」となると信じています。少しずつでも社会が変わればよいと思って、今日も虚しく「公開する」ボタンを押すわけです。
(2021年もご愛顧ありがとうございました。)
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