札幌日帰りの裏側
先日5ヶ月ぶりに飛行機に乗って札幌へ行ってきました。通常15,000マイルのところが9,000マイルで行けるというオイシイ日帰り旅行だったわけですが、実は決めたのは前日です。本当は東京に行く予定だったんです。前日までこんな予約を持っていました。
伊丹から羽田へのJAL787ファーストクラスに乗る予約です。しかし前日の夜にキャンセル…。
幸いなことに、取消手数料無料キャンペーンのおかげで、払戻手数料の440円だけしか取られませんでしたが、初めて乗るJAL787ファーストクラスは夢となってしまったのです。
キャンセルを決めた理由は外的な要因ではありません。100%内的な要因です。何が僕の東京行きを留まらせたのか、これまでに何度も書いている内容かも知れませんが、振り返ってみたいと思います。
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何が東京行きを留まらせたか
以前、こんな記事を書きまして、何が旅行を留まらせているのかを分析しています。しかしこれはあくまでも思考実験。実際に旅行に行く段になって考えたことではありません。
でも旅行を目の前にすると、旅行を留まらせる要因についてリアルに考えることができました。(結果的に思考実験とほぼ同じでしたが)
やはり先頭に立つのが、
感染(による症状)が怖い
ということよりも、
他人に掛ける迷惑が怖い
というのと、
他人からの批判が怖い
というものでした。
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やはり怖いのは他人
僕が何を恐れたのかもう少し詳しく書きたいと思います。僕が一番恐れたのは学校の休校でした。僕が感染し、子供にうつしてしまったら学校が休校になります。休校になったら親に迷惑を掛けます。ネットの誹謗中傷ならまだマシですが、同じコミュニティからの誹謗中傷は相当に堪えると思います。しかも1年生から6年生までの何百人という親から非難を浴びることになります。(感染者を非難してはいけないんですが、今の社会風潮では間違いなく非難されると思います。)
次に恐れたのが職場に迷惑を掛けることでした。学校のように何百人とは言いませんが、それなりの人数に迷惑を掛けます。妻に感染したら妻の職場にも迷惑を掛けます。自分一人ならば家で監禁され自業自得かも知れませんが、自宅監禁を他人にも強要してしまうことはやはり胸が苦しいです。
そして他人に迷惑を掛けると同時に、僕は自分に降りかかる批判に耐えられません。「旅行に行った(飛行機で遠くに出掛けた)」でも批判の対象となり得るのに、「東京に行った」となったら、
この時期に東京?あり得ない!
と言われるに決まっています。札幌に行ったのと東京に行ったのとでは、世論としての反応が違います。札幌でも批判は受けるでしょうが、東京よりは随分マシでしょう。
札幌も東京も、もちろん地元の名古屋だって繁華街に出れば感染リスクはほぼ同じでしょうが、やはり「東京に行く」ということは特別な覚悟が必要だと感じてしまいました。
なんとなく
東京在住者が感染→可哀想
東京訪問者が感染→愚か者
という空気があるようでなりません。必要に駆られて行く出張ではなく、不要不急の旅行ですからね…。
(自分が感染させる場合ではなく、自分が感染する場合を考えています。)
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怖いと思わなかったもの
一方、以前書いたブログの中で旅行を躊躇させるものとして挙げた、認知的不協和(行く/行かないの心理的葛藤)、飛行機への恐怖、空港への恐怖などは僕としてはありませんでした。飛行機や空港は色々なところで消毒液が置いてあるので、「まぁこれを手に吹きかけとけば、とりあえずは大丈夫か」と安心しました。むしろ怖かったのはラウンジのドリンクのボタンとか、氷のトングとか。感染するのは万が一だと思っていますが、万が一でも旅行で感染するのはNGですからね。
ただ、こちらを見て下さい。
新千歳空港のANAラウンジではドリンクを取る前に消毒液が置かれており、しかもそこに人が常時いて、消毒をしてからしかドリンクゾーンに入れなくなっているのが安心でした。
しかし、安心と思わせる対策自体がコロナへの恐怖を生み出す源になっているので、やがてはなくしていかないといけないとも思いました。一旦厳しい方向に行くと、やめるのが難しくなりますので、こういう対策がやがて「自分の首を絞めることにならなければいい」と感じます。
あと、僕が感じた感情として、なんだか「悪いことをしている」気になったのは予想外でした。チラホラ見かける旅行者とすれ違うのが何となく気まずかったです。お互い悪いことをしているような感じで、なんとなくバツが悪く感じてしまう僕なのでした。
先日行った新千歳では、少人数で旅行している人が多く、逆に言うと大人数での旅行は皆無で、夫婦やカップルが圧倒的に多く、あとは親子という組み合わせが多かったように思います。やはり最小の社会単位である家族でしか旅行できないのが今の現状ですかね。
そしてこれは面白かったことですが、カップルで旅行している人達がみんな不倫旅行に見えること。なんとなく言葉少な目で、笑顔は少なく、どこか後ろめたさを感じているように見えたんです。これは僕に後ろめたさがあるのでそう見えただけなのかも知れませんが…。
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withコロナと言うのなら
最後に一番言いたいことを書きます。緊急事態宣言中から「新しい生活様式」とか「withコロナ」とか「コロナと共生する」とか、要するに新型コロナウィルスが常に存在するものとして生活しようというフレーズが目立つようになりました。
その方針には大賛成です。もう僕らはコロナ抜きでは生きられないんですよ。前の生活には戻れないんだから共に生きていくしかないと思っています。
ならば、感染者の数を毎日報道するとか、感染者がどんな行動履歴を持っているとか、そういうのをやめないといけないんですよ。
先にも書いたように、コロナで感染の恐怖以上に何倍も何倍も大きいのが他人への恐怖です。僕が東京行きをやめたように、他人に迷惑を掛ける恐怖、他人に批判される恐怖がなくならない限り共に生きていくことは不可能です。
今年初めのパニック期と同じように、「今日は何名の感染者を確認」なんて言っていたら、感染者を異質なものとしてしか扱えないため、僕らは感染して症状が出ることよりも、感染者になることに恐怖を感じてしまうんです。
こんな風ではいつまで経っても新しい生活様式にはなれません。行政や報道が変わらないから僕らの意識は変わらないんです。
全国の大雨の報道でコロナ報道が一瞬少なくなったとき、僕は少しだけコロナの不安を忘れました。報道を少なくすれば、ある程度不安を解消できると思ったのです。
インフルエンザみたいに「拾っちゃったかー」、「仕方ないね」、「1週間外出できないけど頑張ろう」とかそんなレベルまで意識を落とさないといけないんです。
インフルエンザ関連死(超過死亡含む)は日本で1万人もいるのに、なぜインフルエンザで死んでも「インフルエンザって怖いですね」と言わないのか。
治療薬があっても1万人が死ぬのがインフルなんです。
(超過死亡とは、病院を訪れずインフルエンザと判定されずに死亡する人や、インフルエンザが引き起こす肺炎などの合併症で死亡する人などを合わせた数。直接的な死亡者数より、インフルエンザの影響を表現する上でより適切とされる。)
早くそれに気付いて根本からコロナに対する考え方を見直して欲しいです。特に日本では、症状や重症率、死亡率の割に、反応が過剰なんですよね。新型コロナ感染症が本当に怖い病気なのか考え直した方がいい頃に来ていると思います。
新しい生活様式を謳いながら、いつまで経ってもアップデートされないコロナに対する考え方に苛立ちを覚える日々です。
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